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お知らせ

雑文(準備中)

目次

はじめに
「さん」と「先生」
ピアノおたくと橋おたく
私とパソコン
大学の広報誌にカバーガールを載せるのはいかがなものか

はじめに

 最近は、ウェブ上から気軽に書き込めるブログのような ウェブ日記ツール各種が普及して、多くのウェブ書きたちが ブログ系ツールに移行したけど (そのおかげで、読みにくいフレームページや 業者系ウェブデザイナーの大好きな見にくいテーブルタグレイアウト ページが激減して、スタイルシートによるレイアウトが主流になったので、 多くの読みものページが読みやすくなった)、 私は今のところ、 ブログ系ツールを使う気にはなっていない。 もちろん、日々の出来事や思いついたことなどを書き留めていくことは、 それはそれで楽しいことだろうけど、 私の場合、もし日々の事柄を日々ウェブ上に書き留める時間的余裕が あるんだったら、日々の事柄よりももっと他に書きたい ネタ?がいっぱいある。 だから、どちらかというと、自分の書きたいネタを少しずつ 加筆していくことの方が優先順位は高い。 そんなふうに書きたい複数のネタを、少しずつ加筆しながら 書いているから、私の書いている文章には「準備中」のものが多い。 まあ、ほとんどのものは完結しないまま、忘れたころに加筆され続けるだろう。 ただ、私がブログ系ツールの魅力として認めているのは、 ウェブ上から気軽に書き込めるという点だ。 もっともLinuxに乗り換えてからの私は、 sshでウェブサーバーにアクセスして、htmlファイルを直接 viで編集する ようになったので、パスワードを打ち込むだけで(ftpしなくても) 書き込めるという意味では、ブログでなくても、既にじゅうぶんに 書きやすくなった。 それに私は、ホームポジションだけでマウスを使わずに打ち込める viで書くのが最もストレスが低い。 という訳で?、ここに雑文を書く場所を設けておく (なんて言いながら、ある日、突然ブログを始めるなんてことは、 当分はないと思う)。

先頭

「さん」と「先生」

私は、学生や若手教員(やウェブ上で私に言及する人)に、 私のことを「先生」ではなく「さん」づけで呼ぶことを推奨 しているので、その理由をどこかに書いておこうかとは思うのだが、 書きはじめると長くなってしまいそうだ。 取り敢えずここで、ちょっとだけ触れておきたい。 「さん」というのは、 相手の性別とか未婚か既婚かとか(自分より目上か目下かといった)身分とか に関係なく、誰に対しても使える必要十分な敬称だと私は捉えている。 世の中には、 いちいち話している相手や言及している対象の 性別や未婚か既婚かや身分などなどについての情報を識別し、 それに応じて 用いる動詞の種類(東京山手方言における尊敬表現や謙譲表現)を変えたり、 接辞の種類(ヨーロッパ諸語における男性語尾や女性語尾)を変えたり、 敬称の種類(ヨーロッパ諸語における男性用敬称、既婚女性用敬称、 未婚女性用敬称) を変えたりする文法規則を持った言語が多数ある。 このように対象の性や身分の属性に応じて言葉づかいを変える言語習慣というのは、 単にそういう性や身分の区別を要求している(た)社会的な差別の反映に過ぎないと 私は捉えているので、 こうした区別習慣を再生産することに加担したくないという気持ちがある (長くなるので詳しくは書かないけど 正しい日本語って?も参照)。 それに、ある人について どんなこと (「ピアノが好きだ」とか「数学が得意だ」とか 「秋田大学の学生だ」とか)を話題にしているときでも、 常に常に、その人の性別についての情報とか、 未婚か既婚かについての情報とか、 自分よりも目上か目下かについての情報とかを 常に文章表現の中に付加することは、 その人についてのどんな情報よりも、まずは性や身分の属性についての 情報の価値の方が大事であるかのように扱うことであり、 その人の人格を軽視していることにもなると私は考えている (この辺の話題についても、またいずれ)。 だから私は敬称は「さん」だけで十分だと思っているし、 敬語表現もゆくゆくはなくなってもいいと思っている。 そもそも敬意を表すなら、文章の内容で表せばいいと思うし、 現実の敬語の使い分けは敬意を表す相手かどうかではなくて、 身分の上下(とか接客する側/される側)で行われている。 だから私は学生にタメ口をきかれても構わない。 というか、私の母語(石巻方言)には、 東京山手方言のような複雑な敬語体系はないから(丁寧語はあるけど)、 学生の(秋田や東北方言系の)タメ口の方が、私の母語コミュニケーションに むしろ近いとすら言える。

こういうことを言うと、 教わる側が教える側に敬意を表するのは 身分差別とは違うという人がいると思うけど、 私自身は、 大学における生徒*と先生の関係は、 社会人向けのピアノ教室や料理教室とかにおける生徒と先生の関係と (教わる側と教える側という意味において) そう違わない(でいいんじゃないか)と捉えている。 世の中の社会人向けの文化教室(ピアノ教室や料理教室、手話サークルなど) の多くでは、 生徒が先生を「さん」づけするところは珍しくないと思うし、 先生側も生徒に丁寧語を使う、 というか、先生も生徒も言葉づかいに関しては対等な場合が 多い。 というか、サービスを受ける/与えるの契約を交わした大人どうしの 関係なのだと思う。 小学校とかだと、どうも大人が子供をしつけるかのような要素が 見られて微妙だけど(この善し悪しは置いておく)、 大学なんて、 教育というサービスを受ける/与える契約を交わした大人どうしの 関係でいいんじゃないかと思う。

*「学生」と「生徒」

わざと「大学の生徒」と書いたが、 大学生は「生徒」でなくて「学生」だとか、 大学の授業は「授業」じゃなくて「講義」だとかいう議論は、 くだらないと私は捉えている。 「生徒」は日常語においては、 「教わる人」一般だし、国語辞典でも最初に出てくる意味は「教わる人」だ。 「学生」だって、日常語では「学校」の「生徒」ぐらいの意味だし、 国語辞典の意味もそうだ。 それになにより、「学生服」という日常語は、 中学生や高校生という「学生」の服を意味している。 「学生は大学生で、生徒はそれ以外」 みたいな用法は、あるコミュニティ(大学の先生とか?)や機関においては、 それなりに浸透しているのかも知れないけれど、 だからといって、 「大学の生徒」のような日常語的にも国語辞典的にもなんの問題もない 表現を 「それは間違いだ!」と質すような態度はいただけない。 それに、言葉というものは、 誰でも簡単に使えるように定義される方が望ましいと私は思うから、 「学生は大学生で、生徒はそれ以外」 みたいな混乱を招く区別を再生産するのに くみしたいとは思わない。

ちなみに、理科教育系のMLなどでは、対等でオープンな議論ができることを重視し、 敬称に「さん」を使うことを規約として決めていたり、 「先生」を使うことを禁止していたりする。
投稿者ガイドライン(理科教育ML ver.2)
理科と教育のメーリングリスト (「対等な人格を持った個人同士では当たり前のことである」。然り。 私が、ダラダラと書きなぐって、書き切れていないことを 必要十分な一言で言い表している)
新理科教育ML規約

先頭

ピアノおたくと橋おたく

私は中学頃からクラシック音楽に懲り始め、 自己流でピアノを弾いていたが、 大学生になってからちょっとした機会?があって ピアノを習っていた。 私はクラシックが好きでピアノも好きだったから、 当然、多くのクラシックを (レコードやCDやFM放送や演奏会で)日課のように聴いていたし、 音楽に関する様々な知識も持っていた。 だから私は、当初ピアノの先生というのは、 「グールドの怪速の月光もすごいけど、 フランソワの月光はペダル踏みっぱなしでルバートしまくりで、 ほとんどドビュッシーですよねえ」 とか 「バッハの時代の平均律って、ヴェルクマイスター律みたいなんだったとすると、 ハ長調は3度が+4セントしかずれてなくて純正に近いから、 バッハはそれを意識して ハ長調は長三和音を響かせるように書いたんですかねえ」 みたいなことを安心して話題にできる(貴重な)話し相手なのだと 思っていたら、 どうも違うのである。 もちろん、ピアノの先生はピアノはすごくうまいし、 私は、技術的な多くのことを教えて戴いて感謝している。 でも、ピアノの先生は、 必ずしも クラシックおたくとは限らない (そうじゃない人の方が多いかも知れない)。 ピアノの先生は、恐らく、 幼少期からピアノを習っていた人たちだろう。 自分からやりたいと始めた人もいるだろうし、 親に勧められて(強制されて?)始めた人もいるだろう。 もちろん、ピアノを幼少期から習っている人たちの中で、 ピアノの先生ぐらいにピアノがうまくなる人は、 その中のごく一部である。 つまり、幼少期からピアノを習っているというのは、 ピアノの先生になる上での必要条件ではあるかも知れないけど (大人になってからピアノを始めて ピアノの先生になった人ももしかしているかも知れないが)、 少なくとも、 クラシックおたくであるということはピアノの先生になる上での 必要条件という訳ではないのだ。

  さて、一方で私は、 橋に関係の深い研究を行い、学生を指導している。 しかし、私は橋おたくという訳ではない。 例えば私は、 ブルックリン橋やゴールデンゲート橋といった有名な橋ですら、 その完成年やスパン長を正確に言うことができない。 もし橋おたくの人が、 私と橋に関して、構造に関することではなくて、歴史背景のこととか、 今まで、どれだけの橋を見てきて、どの橋が気に入ったかといった話をしたら、 その人は、私が「安心して橋おたくな話のできる貴重な話し相手」 ではないことを悟って、失望することだろう。

  世の中には、ピアノを愛しているピアノおたくはいっぱいいるけど、 ピアノおたくたちは、必ずしもピアノが (自分が到達したいレベルでは)弾けない。 ピアノおたくたちがうらやましいと思うレベルでピアノが弾ける ピアノの先生たちは、必ずしもピアノおたくという訳ではない。 世の中には橋を愛している橋おたくも結構いるけど、 橋おたくたちは必ずしも構造や設計に関する知識や技量を 持っている訳ではない。 橋に関係する研究をやっている大学の教員とかは、 構造や設計に関する知識や技量は持っているけど (こういうのを橋おたくはうらやましがってくれるのかな?)、 必ずしも橋おたくという訳ではない (もちろん、橋おたくな人もいるけど)。 さて、世の中には、 私が、ピアノが弾けるくせにピアノおたくじゃない人をうらやましがっているのと 同じように、 橋の構造や設計に関する知識や技量を持ちながら 橋おたくでない人をうらやましがっている ピアノおたくじゃない橋おたくのピアノの先生とかもいるのだろうか……

先頭

私とパソコン

はじめに

  私のことをパソコンおたくと勘違いしているおめでたい学生もいるようなので この辺のことも書いておかなければならない。 かなり長くなりそうなんで、最初に結論を書いておくと、 わからないことを「自分で調べる」「自分でやってみる」 という基本姿勢(というか習慣)を身に付けない限り、 何年間パソコンを毎日 使い続けていようが、 半永久的に「万年パソコン初心者」であり続けるだけだろう (「脱!教えて君同盟」参照)。 ほぼ同様のことは、語学学習やスポーツや楽器の習得などに関しても 当てはまるかも知れない。 ちなみに、私自身も、 (この文章を最初に書いた2000年代初頭の時点で) つい数年?前にウェブページの読み書きに興味を持つ前までは、 パソコンに詳しい人に設定を任せきって 自分で調べてやってみようとしない 「悪いパソコンユーザー」の典型だった。 だから、私がパソコンのことを自分で勉強するようになったのは、 本当につい最近のことなのだ。 秋田大学に来て(身近にパソコンのことを 気軽に聞ける人がいなくなって)からと言っても過言ではない。 Linuxに至っては、 つい、こないだWindowsから乗り換えた ばかりである。

電子ブロック

  私が最初にパソコン(またはマイコン)をいじったのは、 高校の物理部のPC8001mk2だけど、 コンピューターというものに対する興味は小学生の頃からあった。 というか、コンピューターに限らず電子回路に対する興味なら もっと前からあった。 小学2年の頃であろうか。父親が 電子ブロックSRシリーズの安いやつ (1石か2石の回路を作って、音はクリスタルイヤホンで聴くやつ)を買ってきた。 これは凄く気に入った。 もっといろんな回路が組めるやつが欲しくなって、 小学3年だか4年のクリスマスに、サンタクロースにお願いして、 ST155だかいう 一番高いやつ (ブロックを並べる容器?の奥に、アンプの入った制御部が鉛直に立っている 白くておしゃれなやつ)を買ってもらった (ちなみに、私はその電子ブロックは親がこっそり買ってきたものなのだという 事実を姉に教えてもらうまではサンタクロースの存在を信じていた。 神さまや天国・地獄は作り話だと思っていたにもかかわらず)。

小学高学年ぐらいからは、ラジオのキット (トランジスタや抵抗などのパーツ類をプリント基板に 差し込んで半田付けして作るやつ)なんかもよく作った。 というか、あの頃は、(宮城県の)石巻辺りの片田舎の デパートにすら、 ラジオのキットぐらいは陳列されていたもんだけど、 今は、(宮城県の)仙台辺りの都会のデパートですら、 そういうのは全く見なくなってしまったなあ。

で、そんな関係?から、小学高学年の頃は、 電気回路とかコンピューターとかにもそれなりに 関心が芽生えていたので、 コンピューターが2進数の1と0だけの情報を扱っている といった話も、その手の本を読んだりして知っていたし、 算数の授業で、「記数法」の中で2進法をやるのを とても楽しみにしていた。 それなのに、それなのに、 担任の先生から、 「みなさんの学年から、2進法をやらなくていいことになりました」 と告げられた時は、とてもショックだった (それにしても、我々の学年は、 楽しみにしていた「鶏の孵化観察」もやらないことになったし、 楽しみにしていた「カエルの解剖」もやらないことになったし、 あの年頃でないと味わえない知的感動を奪われたことの怨みは 未だに忘れない)。 同じく、2進法を教えてもらえないことに不満と憤りを覚えた 同級生のUMTとともに「むずかしいことノート」という 交換ノート?を作って、 二人して、 2進数の足し算や、 10進⇔n進の変換方法などなど 自主勉強をやったものだ。 アンド回路、オア回路、ノット回路などのデジタル回路の勉強も (マイコン入門みたいな本を読んで) この頃から既にやっていたかも。

昔の小学校(私は1978年頃に小学6年生なので、それ以前)で、 n進法をやっていたというデータを検索できないので、 記憶の捏造かもしれない。 教科書に記数法というのがのっていて、 二進法に限らず、n進法の説明が書いてあったような記憶があるんだけど、 友達が持っていた中学生のきょうだいの教科書とかを見たのだろうか。

さて、「初歩のラジオ」とかに載っている ちょっとした電子工作を始めたのは、中学に入ってからだったろうか、 小学高学年の頃には既にやってたろうか。 トランジスタとか抵抗とかのパーツ類は、どこから買うのかというと、 まあ、ほとんどは通信販売だけど (だから私は中学か小学高学年で現金書留の出し方を知っていた)、 パーツ屋さんも石巻にもあったんだよ! (字は忘れたけど、タマル電気と、あと、すぐになくなったけど、 古川電商だか、そんな感じの店もあったっけ。 仙台には、梅沢無線が、 片平北門の近くにあったっけなあ)。 当時は、SN7400とかの (TTLの) デジタルICを使ったゲーム各種 (早押しゲームとか、ルーレットとか)の製作記事も「初歩のラジオ」とかに 紹介されていて、その手のゲームも (ポジ感光基板で基板をエッチングしたりして)作ったりしたものだけど、 その関係もあって デジタル回路にも興味を持った。 で、 白土 義男著 「ディジタル回路の手ほどき」 という本を買ってきて、熟読したのだけど、 (ダイオードまたはオアゲートを使った)10進→2進エンコーダー、 繰り上げを含む2進加算回路、 (アンドゲートを使った)2進→10進デコーダー、 フリップフロップ、カウンターなどの 仕組みがそれなりに理解できた(つもりになった)。 この本は、もうなくしてしまったけど、 中学生でも理解できるように書かれていたので、 実は良書だったのではなかろうか。 マイコン入門みたいな本も何冊か買って読んでいたと思う。 当時のマイコン本には、プログラム言語としては BASIC が紹介されていた (あるいは「ラジオの製作」の記事だったかも知れないが)。 私が最初にアルゴリズムを理解したつもりになって、 いつか、自分にマイコンがいじれる機会が訪れたなら、 ぜひ打ち込んで実行させてみようと覚えた最初のプログラムソースは、

10 INPUT X
20 INPUT Y
30 Z=X+Y
40 PRINT Z
50 STOP
60 END

だったかな(あるいは、X,Y,Zでなくて、A,B,Cだったかも知れないし、 最後のENDはなかったかも知れない)。 で、このプログラムは、 街なかの電器店みたいなところで、 マイコンフェアーみたいなのをやっていたときに、 実際に打ち込んで RUN して動作確認してみて感動を覚えたものだ。

高校は、適当に電子工作をして遊んでればいい物理部に入ったのだけど、 (2年だか3年 になってからだったかなあ)物理部にパソコンが導入されることになった (この頃は、まだ、マイコンだったかなあ。既にパソコンと呼ばれてたかなあ)。 あと、1〜2週間後にパソコンが来ると告げられて、 私は何もせずにじっと待っていることができなかった。 というか、 他の部員たちに少しでも先んじたくて(見栄を張りたくて)、 さも、パソコンを多少は使いこなせるふうを装いたくて、 パソコンに最初に触る時に、既にブラインドタッチができるように なっていたいと思い至った。 といっても、キーボードの実物はないし、 どうしたかというと、何かの雑誌の背表紙に、やや大きめに印刷されていた キーボードを叩きながら、ブラインドタッチの練習を始めたのである。 といっても、 任意の文字列をなめらかに打ち込める域に達するのはさすがに現実的な目標設定ではない と悟って、 INPUTやPRINTや STOPなど、BASICの主要コマンドの打ち込み要領だけを 紙キーボードを叩きながら密かに練習したものだ。 この隠れ練習はそれなりに成功したような記憶がある。 ほとんど初めてキーボードに触れるのに、 そこそこなめらかに打ち込めるのを部員から不思議がってもらえ (て嬉しかっ)たような記憶がかすかにある。

この時のパソコンは、PC8001mark2だけど、 起動すると、640*200ドットだかの緑のモノクロモニターに カーソルが点滅していて、 BASICのコマンド (といっても、ファイル読み込みなどのOS的な機能もかねてるんだけど) をすぐに受け付けるようになっていた。

CMD CIRCLE(X,Y), R

みたいに書いて円を描くコマンドや

CMD LINE(X1,Y1)-(X2,Y2)

みたいに書いて線を引くコマンドがあったので (LINEコマンドの後に、「,,B」とかを加えると長方形も描いてくれた)、 乱数で決めた座標から、 FOR-NEXTループで座標値をずらして重ねたり、 いろんな絵を描いて遊んだ。 作ったプログラムは、 カセットテープに保存していた。

まだまだ先が長いんで覚え書き

高校の時の同級生で将来はパソコン関係をやりたいという
やつに、具体的になにをやりたいのかと聞いたら、
「例えば、ゲームつぐったりやー」と言われた。
これは、なかなか象徴的な言葉だった。

当時のパソコンの利用用途は、確かに「ゲーム」が
多くをしめていた。

この(象徴的な)傾向は、ネットが普及するまでは、そう
大きくは変わらなかったような。

で、私は、ゲームにはあまり興味がなかった。


大学の情報処理の授業でやったのは、
1年の時がFORTRAN77
3年の時がPL/1
ともに、わかりにくい授業だった(私の情報処理の授業以上に)
というか、授業の最初に課題を出されて、それを各自が
プログラミングしてるだけ。

高校ぐらいから文章(というか、小説とか)を書いたりしてた
私は、
大学に入って、高価なパソコンよりも、むしろ安価なワープロが
ほしかった。
自分の文章を電子化して保存しておきたかった。

で、大学2年の時に5万円だったか2万円だったかの
書院の中古ワープロを買った。
ディスプレイは、1行×12文字で、保存媒体はカセットテープ。
JIS第一水準漢字までで、フォントは24*24ドットの明朝。
外字をいっぱい作ったものだ。

大学4年から研究室配属。
MS-DOS を5インチのフロッピーディスクで立ち上げて
MIFESなどのエディターや、Ngraphや、
MS-Fortranや一太郎 3.0を使っていた。

40MBのハードディスクが導入されたときは、すごいなあと思った。
修士2年からは、4人に2台ぐらいのEpson286マシンが導入されて、
40MBの外付けハードディスクからMS-DOSが起動した。
まだ、TeXは使ってなかった。

研究室では常に、ゲームは流行っていた。
私もTakalithだけには、割りとはまった。
#ちなみに、Linux上でもTakalith(を更に難しくした)みたいなゲームができるようだ。
でも、長期的に見ると、
私はそれほどゲームには興味がなかった。
というか、
ゲームのために、パソコンのことを勉強したり
ゲームのために、パソコンを買おうと思い立ったりするほどには、
ゲームは、パソコンをやる動機付けにはならなかった。

そのころ研究室で、ソニーのNewsが導入され、
TelnetでNewsにつないでフォートランで計算したり、
メールを使ったりやりはじめた。

UNIXコマンドライン上でviでプログラムを編集して、
コンパイルしてエラーが出てデバッグしてという一連の作業は、
それなりに楽しい作業だったけど、
これも、パソコンのことを勉強したり、パソコンを買ったりする
動機づけにまではならなかった。
 
DOS上でLaTeXを使いはじめたのもその頃からだったろうか。
数式は勿論、組版などのレイアウトも当時は、
LaTeXがワープロよりも確実にきれいだったと思う。

こんなふうに、私は DOS上でMIFESなどのエディタや
NGraphなどのグラフ描きソフトやLaTeXを使っていたし、
UNIX上でviでプログラムを編集してコンパイルしたりしていた
けど、それは言うなれば、今時のWindowsユーザーに
たとえて言えば、せいぜい
「私、ワードとエクセルとパワポができまーす」
ってレベルであって、
そうした自分が使う各種ツールのインストールや設定は
人任せにしてやってもらうことが多かった。

ここから先もパソコンの進化に応じて色々と話題はあるんだけど、
私は、パソコンの各種設定を人任せにしていて、
典型的な「悪いパソコンユーザー」を
何年も続けることになる。

というか、まだインターネットのない時代や普及してない時代に、
パソコンの各種設定について調べて勉強している人たちは
どうやって、勉強していたのだろうと、未だに不思議に思う。

#今は、インターネットのおかげで、本当に勉強しやすくなった。

で、転機の一つは、そのインターネットだ。

私は、1997年頃から、ウェブページを書き始める。

これは、いろんな意味で、私にはすごく面白く思えた。

ハイパーテキストという書式は、私のやりたいことを
やるのに、実に最適で合目的的であった。

私は、HTMLを書いたおかげで、
それまではやや批判的に見ていたLaTeXの良さを
再認識し、
ウェブの読み書きにはまったおかげで、
パソコンを使うことが好きになった

で、ウェブページ上に何でも書きたいことを遠慮なく書けるように、
自分の私的なウェブサイトを立ち上げるために、
プロバイダー契約し、というかプロバイダー契約するために
生まれて始めてキャッシュカードを作り、
生まれて始めてパソコンを買った。
(クロックは133MHz, メモリは増設して80MB, ハードディスクは1.5GB, OSはWindows95)

Windows上の各種ソフトのインストール方法とかを
自分で勉強し始めるのは、ようやくその頃からだ。

で、インターネットが普及してからは、
分からないことをウェブ上で調べると、
非常に多くの情報が簡単に手に入るようになった。
インターネットが普及する前のDOS時代の人たちは、
本当によく勉強していたと感心する。

時に、
(2005年頃現在)
70になった私の母親は、左脚の股関節が痛んできたみたいなんで、
オートマに乗り換えた方がいいと思うのだけど、
本人はがんとしてオートマに乗る気はないそうだ。
マニュアルに慣れてきたし「この年で」新しいことを覚えるのはイヤとか。
私はこの手の「年寄りの保守性」(と名付けておく)は、
年を取ったっから新しいことに手を出すのが億劫になったという要素だけではなくて、
その人が若い時から、分からないことを「自分で調べる」
やったことのないことを「自分でやってみる」という習慣を身に付けない
まま年を取ってしまったという要素も大きいような気がしている。

「年を取ると機械はダメで」と言い訳をする万年パソコン初心者や
「年を取るともう会話はダメで」と言い訳をするエスペラントの
万年初心者(いわゆるeterna komencanto)がいる一方で、
年を取ってからパソコンに興味を持ってウェブを立ち上げる人もいれば、
年を取ってから語学学習を開始して、会話ができるようになる人もいる。

まあ、性格とかもあるだろうけど、
「自分で調べてやってみる」という習慣を身に付けるかどうかで
今後の(それなりに長い)人生の楽しみやすさ、楽しみの多様性は、
大いに変わってくると私は思う。


大学の広報誌にカバーガールを載せるのはいかがなものか (2013夏頃?)

秋田大学の広報誌に「アプリーレ」というのがある。 私は秋田大学に来てから、 広報誌なんてあんまりちゃんと見ていないので、 新聞部系サークルとかの広報誌かなぐらいに考えて、 あまり気にしていなかったのだけれど、 秋田大学企画広報課が出しているちゃんとした大学の広報誌のようだ。 そうなると、私としてはちょっとひっかかる点がある。

こちらからバックナンバーが見れるが (少なくとも、表紙の縮小画像はフラッシュプレイヤーなしでも)、 毎号の表紙に、 「表紙モデル」なる秋田大学の女の学生が、いかにもカバーガールっぽく 表紙を飾るのである。 私が見た限りでは、男の学生が「表紙モデル」なったことはないし、 女の学生にしても、どうもカバーガールとして見栄えのする かわいい外見の人を選択的に採用しているのではないかという 疑いを私は抱く。 まあ、そういう意味での カバーガールっぽい (要は、かわいさやきれいさを強調した)演出は、 企画広報課の意図なのだろうが、 深く考えずに「表紙モデル」を引き受けた学生たちは、 被害者的な側面もあるので、責めないであげてほしい。

では、大学の広報誌の表紙に、かわいい女の学生をカバーガールとしてのせる ことがどうして問題なのか一応 説明しておく。 それにしても、うちの大学でこういうことに対するチェックがまるで 働いていないのはちょっと情けない気分だが。 こういうことを問題視している文献を検索していたら、 東京都港区役所のサイトが 以下の私のひねた説明なんかよりも、よっぽど 具体的でわかりやすいガイドラインを出して いた**

教科書的な説明からいくとすると、まず、 人間の価値や能力というのは多様であり、 多様な人々が自分に特有の価値や能力を発揮できる社会の方が、 特定の価値や能力しか評価されない社会より、いい社会であろう。 例えば、大学生とかだったら、 パソコンや機械をいじるのが得意だとか、 スポーツが得意だとか、 楽器演奏や歌が得意だとか、 絵やイラストが得意だとか、 数学が得意だとか、 外国語が得意だとか、 イベントの企画が得意だとか、 まあ、 得意でなくても趣味や専念していることとか、 要は、その人らしさを表す要素が外見以外にも色々とあるはずだ。 もちろん、 外見が(大衆の世間的な価値観で)きれいだということも その人らしさを表す特徴の一つではあるだろう。 でも、 今 現在の世の中では、 女性に対してのみ、 その人の様々な能力や要素はどうでもいいから、 まずは「外見のきれいさ」だけを切り離して鑑賞価値として利用していいという風潮が まだまだある。 一定の能力を要求される技能者であっても、 女性の場合のみ「外見のきれいさ」を鑑賞価値として利用できることが 前提だったりする。 モーターショーなど各種イベントのコンパニオンガールとか、 インフォメーションコーナーなどの受付係とか、 ニュースキャスター(男女一組の場合、女のみが若くてきれい)とか。 もちろん、資本主義社会では、 たくさんお客さんが集まること、視聴率を上げることが大事であるから、 女性の外見を鑑賞物として利用する風潮は、 どんどん利用され再生産されていく*。 そうすると、 「まず第一に外見の美しさが女性の利用価値だ」という通念も どんどん再生産される悪循環に陥る。 この問題も広い意味での「性の商品化」だと私はとらえる。 女性である以上、まずは外見が美しくなければ使えないという通念が強い社会は、 女性にとってはもちろん、男性にとっても、 人それぞれが自分の多様な能力を発揮することを妨害する要素がある 社会であり、 ある意味では社会的に損失があるとも言える。

大学というところは、 これから社会に出て活躍する若者たちの多様な能力を 発掘し育て上げる重要な教育機関であると思うが、 その大学の広報誌で、 女性の外見の美しさのみを鑑賞価値として利用する手法を採用することは、 世の中で集客率アップのためにやられているこの手の手法 (各種イベントのコンパニオンガールにせよ、 カバーガールの表紙に グラビアページの時事週刊誌にせよ) をますます正当化することに 加担しているのではないだろうか。 広報誌Aprireの内容自体は、よく編集されていてなかなか良い 大学広報誌だと思うので、 「表紙モデル」は普通の学生(男性も)の紹介にしたらいいのではないだろうか。 まだまだ大学生(特に理系学部)に女性が少ないという現状に (アファーマティブ・アクション的に) 配慮して、女の学生を優先的に紹介したいということがあっても いいかもしれないが、 その場合も、例えば、 実験室でコンクリートを練っている姿とか、 スポーツ系サークルなり音楽系サークルなりで、 熱心に活動している姿とか、 そういう学生生活の様子そのものが伝わってくる写真を 紹介した方が、よっぽど好感が持てると私は思う**

* 大衆(の半分の男性?)が女性のきれいな外見を鑑賞したがる以上、 それを利用した集客(営業)手法をやめさせるには、規制などの 政治介入をすべきなのかということになると、なかなか難しい問題だと思う。 例えば、ストリップとか 「性の商品化」レベルが割とはっきりしているものに関しては 風営法とかで18才未満お断りなどのゾーニングすれば済む話かもしれない。 だから 例えば、普通のレストランに入って食事をしていたら、 突然 ストリップショーが始まるとか、 普通のデパートに入って行ったら、店員が全員 水着の女性だとかという ことはひとまず規制されていると言っていいだろう。 しかし、 ヌードや水着までいかない 女性の外見のかわいさやきれいさを(巧妙に)鑑賞価値として利用する手法自体は、 なかなかゾーニングは難しい。 秋田のお米のパッケージに萌えキャラが印刷されているのを見て、 私が最初に「あれと似てる」と思ったのは、 水着の女性がニュースを読む 外国のテレビ番組だ。 「お米」に「萌えキャラ」だの、「ニュース」に「水着女性」だの まるで関係ないものを、 それを付けると飛躍的に集客率が上がるから組み合わせるという手法だ。 水着ニュース番組の方は、深夜番組とか一応のゾーニングがなされている のかもしれないが、お米は誰もが(といっても大部分は大人か)が買うもので、 子供など家族も見るものだ。 その辺に違和感を感じてしまうのかもしれない。 この辺の問題については、私もまだ考えが整理できていないが、 そのうちまた考えがまとまってきたら、加筆したい。 例えば、「萌えキャラ」(そのほとんどはかわいい女の子キャラ)については、 確実に広い意味での (巧妙な)「性の商品化」の一手法ではあると私は感じているが、 その問題性とか。 割と身近なとこでも「萌えキャラ」を使いまくり始めているので、 これもちょっと気になっているところ。 と書いているうちに見つけた以下の東京都港区役所のサイトのガイドラインは、 なかなか穏当な政治的介入の具体例ではないだろうか。

** 東京都港区役所のサイトでは、 刊行物作成ガイドライン「ちょっと待った そのイラスト」という ガイドラインを作っていて、 どういう表現が問題となって、問題を回避するには どう工夫すればいいのかということが とてもわかりやすく具体的に説明されている。 うちの大学の広報課も、このガイドラインを参考にしてはどうだろうか。 私のひねた説明なんかよりも、この説得性が高いガイドラインを読んだ方が 素直に納得できるかもしれない。 たかが表紙モデルにきれいな女性をのせることが、 なぜ「性の商品化」とつながるのかということについても、 「性」を利用しないで表現を工夫しよう!(PDF:694KB) を見ると、ちゃんとわかりやすく説明されている。

あと、大学祭のときにやられているらしいミスコンとかも、 「性の商品化」の典型例だけど、あれは恐らく学生たちが主催しているのだろうから、 そこは、学生たちが自分で問題性に気付いてほしいところだ。 岸さんに同意。

2016/8/23追記: 私も学内で様々な委員をやらされているので、 そのうち広報関係の仕事もやらされることになるなあと 思っていたら、2016年度は、広報関係の委員をやらされることになり、 その関係で出席した広報戦略に関する会議で、 件の広報誌「アプリーレ」についての意見を求められた。 なので、表紙に毎回 女子学生をカバーガールみたいに使うのは 不自然に思うんだけどと正直な感想を言ってみたら、 他の出席者の方が、 私も数年前に全く同じ意見を言いましたと。 で、その数年前のときは、 「(表紙に女子学生を使うのが)既に決まっていることなので」と 取り合ってもらえなかったのだとか。 現在は、会議の構成員も当時とは入れ替わっており、 当時の決まりに従う必要もないので、この件について改めて 話し合った結果、 既に表紙モデルが予定されている学生については、 そのまま従来通りの表紙モデルになってもらうこととして、 それ以降の表紙は、改めて検討することとなった。 なので、そのうちアプリーレの表紙は、 変わるのではないかと思う。